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鬼無里のこと

鬼無里のこと

「伝説の谷 鬼無里」は、裾花川の源流域に沿ってひろがる、周囲を山々に囲まれた谷の都です。
鬼の無い里・きなさという地名の由来は諸説ありますが、広く知られているのは、遷都計画を阻むために鬼が築いた一夜山の話と鬼女紅葉伝説です。ほかにも、木曽義仲ゆかりの物語や、かつて湖の底だったことを示す舟繋ぎの木の存在など、多くの言い伝えが残っています。

鬼無里にまつわる伝説と歴史

昔は湖の底だった!?

戸隠との境に近い中田地区の十二神社には、「舟繋ぎの樹」と呼ばれるケヤキの木があります。鬼無里は昔、湖の底にあり、十二神社の南西、直線距離で7.5キロメートル離れた飯縄神社(現小川村飯縄山頂)とを結ぶ渡し船を繋いでいたそうです。 ある時、虫倉山と新倉山の間で山崩れがあり、現在の国道406号、銚子口トンネルのあたりから湖の水が流れ出て、湖底=現在の鬼無里が姿をあらわし「水無瀬」と呼ばれるようになりました。湖底から現れた山のひとつが鬼無里神社の近くにある「魚山 」だと言われています。十二神社の紋章は帆かけ船で、鳥居を波よけの鳥居と呼ぶのもこの故事からきています。

遷都計画と一夜山(いちやさん)の鬼伝説

684(天武13)年頃のこと、天武天皇が(信濃国に)遷都を計画し、三野王(みぬのおう)や采女臣筑羅(うねめのおみちくら)たちを調査のために派遣しました。鬼無里に住む鬼たちは、それを邪魔するために一夜で山を築いてしまいました。怒った天武天皇が鬼たちを退治したので、水無瀬という地名が鬼のいない里『鬼無里』になったという伝説が残っています。鬼たちが一夜で築いた山は一夜山と呼ばれ、今は初心者向けの登山コースになっています。また、加茂神社や春日神社は三野王との関わりがあったとされ、白髯神社は天武天皇が鬼門の守護神に創建したと伝えられています。

遷都計画と一夜山の鬼伝説

鬼女紅葉(きじょもみじ)伝説

いまから千年以上前の平安時代、源経基(みなもとのつねもと)の寵愛を受けた紅葉という美しい女性が京の都から流され、この地にやってきました。紅葉は、東京(ひがしきょう)、西京(にしきょう)、二条、三条などの名をつけて都を偲び、人々に都の文化や読み書き、医術などを伝えて暮らしていました。ところが、いつしか兵を集めて山賊を仲間にし、力づくでも都に上ろうと考えるようになりました。人々は紅葉を鬼女と呼ぶようになり、それを知った京の朝廷は平維茂(たいらのこれもち)に討伐を命じ、紅葉は33歳で命を落とします。以来、水無瀬と言われていたこの地は、鬼のいない里「鬼無里」と呼ばれるようになりました。いまも鬼無里には、東京、西京など京にちなんだ地名や紅葉が暮らした内裏屋敷跡が残っています。

松巌寺(しょうがんじ)は、紅葉の菩提寺として「地蔵院」を建立し供養したことが始まりと言われ、毎年9月に鬼女紅葉まつりが行われています。境内には「紅葉の墓」といわれる石塔や、紅葉伝説にひかれて当地を訪れた川端康成の文学碑も残されています。

鬼女紅葉(きじょもみじ)伝説(日本語と英語の解説ページ)

鬼女紅葉伝説

木曾義仲伝説

源義仲(みなもとのよしなか、通称:木曾義仲)は、平家討伐のために木曽から北上し、北陸に向かう途中の1183(寿永2)年に鬼無里を通過したと言われています。その際に義仲は守護仏の大聖智慧文殊菩薩像をこの地に預けました。その後、鬼無里に戻ることなく没したため、仁科城主(現・大町市)仁科盛遠が建てて菩薩像を安置したお堂が、現在の土倉文珠堂です。義仲の死後、家来たちが義仲の第二子力寿丸をかくまうために逃れたアブキ(岩屋)は、奥裾花に「木曽殿アブキ」として残っています(現在は道が悪く、行くことができません。)鬼無里に残っている今井姓、樋口姓は、義仲の家来たちが定住したものだと伝わっています。

木曾義仲伝説

大日方氏

鬼無里を含め、小川村や長野市の中条、信州新町、七二会、芋井、戸隠の山間地は古くから「西山」と呼ばれています。戦国時代の1543(天文11)年、武田信玄が信濃に侵攻。西山地域で勢力があった古山城(現・小川村)当主の大日方氏は降伏を決めますが、長男の金吾直経だけが抗戦を主張し、弟たちに謀殺されてしまいます。直経が身を投げて命を落としたとされる裾花川の「金吾淵」が今も残り、そばには直経を祀る「金吾廟(※)」があります。武田氏が滅びた時、当主・大日方つく房がまだ幼かったため、木曾義昌が鬼無里を松本源丞と保科清助に預ける旨の朱印状を1573年(天正元年)に書いていますが、上杉景勝の北信濃侵攻で約束は反故になり、鬼無里は上杉の支配下におかれました。 ※1995(平成7)年、鬼無里と小川村の大日方一族の子孫が400年ぶりに交流し、一族繁栄の犠牲になった直経の霊を慰めようと行った合同鎮魂祭にあわせ新築。

大日方氏

武田信玄と「鬼無里」

鬼無里の地名の由来は、一夜山の鬼伝説、鬼女紅葉伝説などがありますが、歴史文書に最初に登場した「鬼無里」という地名は、武田信玄が重臣に宛てた書状のなかにあります。1557(弘治3)年、上杉謙信との川中島の戦いの前後に出されたもので「鳥屋城(現・長野市七二会)の敵が増強され、鬼無里に夜襲をかけるかもしれないとの報告があったので調べ、鬼無里への道筋の様子も見届けて報告せよ。あわせて鬼無里や鳥屋城への道筋の絵図を作成し持参するように」と書かれており、鬼無里が上杉軍との戦いの要所だったことがわかります。この書状は現在、長野市立博物館に所蔵されており、信玄自筆のものとしても非常に貴重な資料です。

また、戸隠神社宝物館に残る「戸隠山顕光寺流記」には、「奉 常燈一灯、油料木那佐山一所」という記述がありますが、ここ以外に「木那佐」と記された文書は残っておらず、詳細はわかっていません。

鬼無里の人と文化

山居さんと木食仏

山居上人は江戸時代中頃に虫倉山麓の鬼無里、小川、中条などで木食行(木の実や山菜を主食として読経や作仏をする)をした僧です。1655(承応4/明暦元)年生まれで、13歳のときに奉公先の子を誤って死なせてしまい、罪を償うため松本念来寺の空幻明阿上人の弟子となり出家。その後、虫倉山中の岩窟にこもり、鉈(なた)などで仏像を刻み続け、ひたすらに祈りの人生を送りました。 1698(元禄11)年には小川村高山寺観音堂の修復に尽力し、1703(元禄16)年には仏像一万体彫刻の大願を成就。 晩年は大町市弾誓寺で住職となり、1724(享保9)年に入定(即身成仏)しました。現在、鬼無里では約60体ほどの木食仏(山居仏)が残されています。荒削りで朴訥な小さな仏像は一体一体表情が異なり、そこには静かながらも様々な感情が浮かんでいます。鬼無里では親しみを込めて仏像そのものを“サンキョさん”と呼んでいます。

山居さんと木喰仏

麻の一大産地だった鬼無里

安土桃山時代の文禄年間(1593~1596年)頃から生産されていた麻は、青金引麻の名で善光寺周辺や松代城下をはじめ江戸へも売られていました。江戸時代の1765(明和2)年、吉郎右衛門が江戸で麻糸を加工して畳糸にする技法を持ち帰り広め、明治初年には寒冷積雪地の不利を逆手にとった寒ざらしの手法が考案されました。光沢の良い寒ざらし畳糸は氷糸の商標で高値で売買されたので、当時の鬼無里村では95%の農家が麻を栽培し、その半分が畳糸に加工されていました。第二次世界大戦後の1950年代頃までは盛んだった麻栽培ですが、1960年以降(昭和30年代後半)の化学繊維の進出で価格が下落し、さらに大麻に含まれる有毒成分が問題となり、長野県では栽培が禁止され、麻の栽培が終わりました。村の記録によると1960(昭和35)年の鬼無里での麻の作付面積は1950(昭和25)年当時の半分以下となり、1965(昭和40)年は、わずかに6000平方メートルと記録されています。

鬼無里ふるさと資料館

九斎市(くさいいち)

標高が高く稲を作るのが難しかった江戸時代、鬼無里では蕎麦、栗、稗を栽培して干ばつや冷害に備え、木炭、麻糸、和紙(鬼無里紙)を作りました。江戸~明治の頃は塩の道と善光寺や戸隠をつなぐ要所として多くの人馬が往き交い、良質な麻の産地として毎月9回(1・2・8・11・12・18・21・22・28日)、九斎市と呼ばれる定期市が開かれていました。1683(天和3)年に松代藩から開設が許可された当初は1ヶ月に6回の六斎市でしたが、安永9年(1780)に「九斎市」になりました。現在、7月15日から1週間執り行われている祇園祭は九斎市の名残です。

寺島宗伴(てらしま そうはん)

寛政6年(1794)鬼無里村萇畑(えらばたけ)に生まれた寺島数右衛門宗伴は、別家の庄屋寺島半右衛門陳玄(のぶはる)より宮城流の和算(※)を学び、後に松代に出向いて町田源左衛門正記から最上流(さいじょうりゅう)を学び免状を得ました。宗伴はさらに謡(うたい)や折形(おりかた)、生け花、礼法、囲碁などを習得し、これらを鬼無里の人に教え、時には善光寺平、越後、松本平などに出向いて教授しました。宗伴の門人は900人にもおよび、門人は宗伴顕彰の碑を2つ建立しています。一つは、一之瀬の旧鬼無里東小学校に建つ算子塚、一つは松巌寺境内の五輪塔です。宗伴は明治17年2月2日90歳で大往生し、遺骨は前述の五輪塔と萇畑の生家墓地に納められました。

※明治5年(1872)の学制頒布で、数学に西洋数学が導入され、それまでの日本の数学は和算と呼ばれるようになりました。和算は高次方程式や平方根を駆使して図形問題を解析するなど、西洋数学に匹敵するレベルにありました。江戸初期の和算家関孝和らが円周率を高い精度で算出していたことはよく知られるところです。江戸時代は、各地でそれぞれの流派があり、関孝和の流れをくむ関流と激論を戦わせたのが最上流の会田安明で、信州松代藩では町田源左衛門正記らが安明から最上流を学びました。

寺島宗伴

北村喜代松、四海、正信の彫刻

鬼無里ふるさと資料館に展示された祭屋台と神楽の見事な彫刻。それはすべて北村喜代松(三代正信・1830(天保元)~1906(明治39)年)が彫ったものです。越後市振村(現・糸魚川市青海)の宮大工建部家に生まれた喜代松は、18歳頃から鬼無里を訪れ、諏訪神社の屋台、鬼無里神社屋台、加茂神社の神楽などの製作に加わりました。喜代松はその後、鬼無里出身の北村ふさの婿となり、鬼無里との縁をより深いものにします。

喜代松の長男直次郎(四海・1871(明治4)~1927(昭和2)年)は、日本の大理石彫刻の第一人者。早くから父の彫刻を継ぐ決心をかため木彫を修得しましたが、大理石彫刻へ転身。独学で大理石彫刻を試み、フランス留学も果たします。1907(明治40)年には東京勧業博覧会で審査への不満から自作を会場で破壊、撤去して話題になりました。

四海の姉の子虎井広吉(正信・1889(明治22)~1980(昭和55)年)は、祖父喜代松のもとで彫刻を学び、14歳の時、四海に呼ばれて上京、太平洋画学校に学びました。20歳で四海の養子となり、5代北村正信を襲名。正信の女性像は健康的な逞しさとおおらかさに満ち、芸術環境の成熟の中で正信がのびのびと腕を奮ったことがわかります。 ※長谷鉄男コレクション
喜代松の二男の息子で美術愛好家として知られた長谷鉄男の生前の意志と、遺族の好意で、祖母ふさの生まれ故郷であり祖父喜代松の祭屋台が飾られた鬼無里ふるさと資料館に、四海・正信の作品を初め、北村西望、新海竹太郎、綿引司郎らの彫刻80点が寄託され、展示されています。

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